ラッラックが亡くなって15日が経ちます。ラックが亡くなっ経ちます時、体重は2kgしかなく、ケンの時と違い、見た目も一段と小さく見え、改めて弱々しい体と感じた次第です。元気の時のラックがウソの様です。 


振り返れば、17 日の朝、体調の悪さに気づき、いの一番で病院に向かい、先生から聞いた言葉は自分の耳を疑うくらいの危篤の状態でした。「生きているのが不思議なくらい悪い数値です。急性腎不全は外見だけではわかりません。」と先生に言われた言葉が信じられませんでした。即、病院に預けましたが、その日の夜は、眠れず、ラックが万一、ケンのように病院のケージの中で、亡くなるという最悪の事態にならないよう早く夜が明けること願いながら眠れずに一晩を過ごしたのを覚えています。


翌日の朝、一番で受付してもらうよう早朝から病院に駆けつけたつもりが、既に四番目の順番待ちになっていた事に驚きながら開院の時間を待ちました。ラックが少しでも良くなっている事を願いつつ。開院の時間なり順番を待つ事なく院長先生から話があると受付で告げられて中に通された事、事態が、やはり改善方向に向かっていないことを悟りました。泣きながらママは、「残る手段で、何でもいいですから、1割でも救える手段があるのなら・・何でも・・」と院長先生に訴えましたが、院長先生は、「事態は残念ながら改善されておらず、これ以上の投薬に小さい体が果たして持つかは、厳しい状態ですね。」と院長先生は、ママではなく、パピケンを見つめて悟るように言い、その表情は、(覚悟はされた方が・・)と無言の回答を出しているようにも思えました。


昼まで改善見込みがなければ、自宅で見届けてあげようと決めたのは、その直後でした。院長先生は「数値だけ見ると生きている事が不思議なくらいで・・良い報告が出来ず、本当に申し訳ありませんが・・」それでも 最後の投薬効果に微かな望みをパピケンとママは託しました。


結果は昼までに出る事になりました。それからの時間過ごし方は、よく覚えていません。ママと病院の周りを目的もなくウロウロして散歩し、セブンイレブンのコヒーカウンターで2時間過ごし 、病院駐車場の車の中で30分を過ごしましたラックが亡くなって15日が経ちます。 


ラックが亡くなっ経ちます時、体重は2kgしかなく、ケンの時と違い、見た目も一段と小さく見え、改めて弱々しい体と感じた次第です。元気の時のラックがウソの様です。振り返れば、17日の朝、体調の悪さに気づき、いの一番で病院に向かい、先生から聞いた言葉は自分の耳を疑うくらいの危篤の状態でした。「生きているのが不思議なくらい悪い数値です。急性腎不全は外見だけではわかりません。」と先生に言われた言葉が信じられませんでした。即、病院に預けましたが、その日の夜は、眠れず、ラックが万一、ケンのように病院のケージの中で、亡くなるという最悪の事態にならないよう早く夜が明けること願いながら眠れずに一晩を過ごしたのを覚えています。


翌日の朝、一番で受付してもらうよう早朝から病院に駆けつけたつもりが、既に四番目の順番待ちになっていた事に驚きながら開院の時間を待ちました。


ラックが少しでも良くなっている事を願いつつ。開院の時間なり順番を待つ事なく院長先生から話があると受付で告げられて中に通された事、事態が、やはり改善方向に向かっていないことを悟りました。泣きながらママは、「残る手段で、何でもいいですから、1割でも救える手段があるのなら・・何でも・・」と院長先生に訴えましたが、院長先生は、「事態は残念ながら改善されておらず、これ以上の投薬に小さい体が果たして持つかは、厳しい状態ですね。」と院長先生は、ママではなく、パピケンを見つめて悟るように言い、その表情は、(覚悟はされた方が・・)と無言の回答を出しているようにも思えました。


昼まで改善見込みがなければ、自宅で見届けてあげようと決めたのは、その直後でした。院長先生は「数値だけ見ると生きている事が不思議なくらいで・・良い報告が出来ず、本当に申し訳ありませんが・・」それでも最後の投薬効果に微かな望みをパピケンとママは託しました。結果は昼までに出る事になりました。


それからの時間過ごし方は、よく覚えていません。ママと病院の周りを目的もなくウロウロして散歩し、セブンイレブンのコヒーカウンターで2時間過ごし、病院駐車場の車の中で30分を過ごしました。


そしてパピケンは車の中で、ママに言い
ました。「ママ、辛いけど、投薬の効果が出なければ、ラックが無意識にならないうちにラックが育った自宅で最後を見届けてあげよう・・」ママは涙で一杯な顔して無言で首を縦に振りました。11時半。再び病院に行きました。院長先生は、再度、投薬データとラックの動かない状態を見て「投薬を再度、劇的に使用しましたが、もう、いつ息が止まっても不思議ではない状態に入っています。」と話し「自宅で見届けてあげるご判断が今、必要にもなって来ました。」と涙顔のママを避けてパピケンに伝え来ました。それから30分後、ラックは複数の点滴コードから解放され、ママに抱かれてパピケンの車に乗り込みました。


夏休み短いドライブを準備していたパピケンの車には、生きて車に乗るのがこの最後になるかもしれないラックがママに大事に抱かれていました。その後、ラックの短い自宅看護が始まりました。息を苦しそうにして吐くラックの姿。モウロウとした表情でパパやママを見つめ「パパ、ママ、僕、どうしてこんなに苦しいの?」と目で訴えているようにも見えました。しかし、見つめるだけで、何も楽にしてあげられないパピケンとママ。これほど自分の無力さを感じた事はありません。とても長く感じた時間でした。


「もしかしたら奇跡の神がまだ、日本の何処かにいるもしれない・・このままラックの苦しむのを本当に直視できるのだろうか・・ママと決めた自宅で看取る事の判断が本当に良かったのだろうか・・このままこの苦しみがラックに続くのなら苦しまない別の手段を最後に決めなては・・と、ラックが病院から自宅に戻って僅か5時間経過しただけなのにラックの苦しい表情を見ていることに我慢が出来ない自分がいました。そして自分の脳裏にいったりきたり波の様に自問自答するパピケンがおりました。これまでのママの気持ちを思うと、更に辛くなりました。


ママは昔、ラッキーというチワワを僅か3日で亡くした経験があります。また、最愛のケンでは死にぎわに見とれなかった悔いを残しています。そして今度は、ラックで、目の前にラックが苦しみ喘いでいるのに和らげられない辛さに耐えています。ママはパピケンより日々ラックと1日中過ごしていました。そんな思いを察しながらママと看病したパピケンの辛い2日間でした。ラックが病院から出て、自宅に戻って過ごしたのは僅か18時間でした。


ラックはパピケンの自慢の子でした。ケンがいなくなったあと、いつもピョンピョンしながらパパを追いかけ続け、パパが出かけ様とすると、必ず玄関のドアの前に座りこみ、自分も連れて行け!と駄々をこねた可愛い男の子です。自慢のパパ子でした。ラックはママには一目を置いて、良くいう事聞きましたが、甘やかすパパには、いつも怖さ知らずで甘えて遊んでいました。パパもそれで良しとしていました。


パピケンとラックは、よくキスをしました。長い下を出して遠慮なく。ママがよく呆れていました。男の友情の印です。パピケンがお風呂、トイレの時も必ずドアの前で出てくるのを待っていたラックでした。車の鍵の音がすると直ぐ飛んで来て連れて行けと言います。必ずしっぽを振ってパピケンを見つめます。PCデスクでパピケンの姿を見ながら外に出かけないこと見届けて眠りに着く子でした。


チコもラックには全てを許し、ラックがどんなことをしても怒ったことがありません。それに比べ、パピケンは、大事な会社の資料に乗るラックを時として然り、体全体でピョンピョンと飛び上がり自分を抱けと、せがむラックに、忙しさにかまけて全て答えて来た訳ではありません。苦しむラックの顔を撫でながら「ごめんな、ごめんな、全てに答えてやれず・・」とただ、あやまるだけの自分に「病気の悪化に気づかず、なぜ、もっと、今まで優しくしてあげなかったのか!」と、もう一人のパピケンが頭の後ろから責めているように思えて仕方がありませんでした。


先天性の腎不全でも、まさか、この若さで、この年齢ではと、安易に思っていた自分に、また、もう一人のパピケンが「だから、あまり遠出の散歩はダメだと言ったろ!もっともっと水を多く飲ませるべきだろう!体に気をつけろ!と言ったろ!」と怒られている様でした。とても、辛いパピケンの18時間でした。その間、パピケンは、ラックの苦しい表情を見ながら泣きっぱなしでした。この18時間は、ラックがパピケンとママに見せた最初で最後の苦しい表情でした。





でも、賢いラックは、パピケンとママにこれ以上、苦しい表情を見せない様、幾度となく大好きなパパのベッドの下に潜り込み、お尻だけを見せて苦しみを隠しいる様にも思えました。パピケン、それを見て、また涙です。抱いても苦しみました。大好きなパピケンのデスクに乗せても意識がモウロウとして返事がありません。この姿を見てパピケンの涙も枯れて来ました。徹夜でママと看病したけど、出来る事は、ラックに声をかけ、抱いてあげるだけの事でした。18日の朝8時頃。今まで荒かったラックの息が心なしか、弱くなってきて頭を支える力がなくなりました。


パピケンは、急ぎマンションの広場に駐車しっぱなしの車に気づき、急ぎ車を地下駐車場に移動させ、これからラックから一歩も離れない事を決めました。駐車場から戻って再びママから交代してラックを抱いた瞬間、ラックはパピケンの戻るのを待っていたかの様に首を折れ息を引き取りました。パピケン、思わず号泣しました。ママも涙が止まりませんでした。目の悪くなったチコだけが状況を判らずうろたえていました。


19日、ケンと同じ夏の暑い日にラックは荼毘にふしました。小さな小さなラックの骨を拾う時は、不思議と涙が流れませんでしたが、自宅に戻りラックのお線香をあげた途端、今で枯れ果ていた涙腺が、また洪水のように溢れて来て、そのにじんだ目でパパの横に来たチコの姿を見たら、またまた涙腺が刺激され、涙が止まりませんでした。


御住職がお経の後、「元気なラックちゃんは、旅たちましたが、残ったご家族の方々は、その思いを引き継いで日々の生活を明るく過ごされてください。悲しみ暮れているご家族は、ラックちゃんの意に反します。悲しみを心の拠り所に変えて頂く事がラックちゃんへのお返しとなります。」とのお話を聞き「そうだ。メソメソはラックは好まない!明るく振舞おう!」と確か、心に決めたはづなのに、マンションに帰り、風呂場を見れば、ラックが座って待っていたのを思い出し、トイレに行けばラックが待っていたのを思い出し、また、涙が止まりません。困ったものです。